マリッジリングは一つとは限らない
離婚の時かもしれない。
カルナは覚悟を決めた。別れたくはないが、カルナに夫の資格があるかと言えば、「寝言は寝てから言え」と言わざるを得ない。
「オレは、お前に相応しい男ではない。こんな男は見限るべきだ。だがジナコに見限られたら、オレは明日からどうすればいい」
「あぁー、はいはい。どうにもなんないから寝て。今すぐ寝て」
両手で髪を揉みくちゃにされる。その柔い手には細い指輪がある。装飾を身につけない妻が、唯一日常にしたものだった。指輪はカルナと揃いで、夫婦の証だった。生まれもった耳輪と同じく、つけてないと落ち着かなくなる。体の均衡を欠くような、そういう心許なさを覚える。つまり今のカルナは、半身を捥がれたようなものなのだ。
「半身って大げさな。結婚指輪失くしただけじゃん」
「軽く言ってくれる」
「なんでボクが怒られてる風になる」
クスリと小さな吐息が耳に触れる。見上げる双眸には、苦笑があった。姉のような笑みは好ましい。だが同時に焦燥に似た不甲斐なさが胸に生まれる。ジナコの中でのカルナの位置を思い知らされるようだ。この体たらくで年下扱いに不安を覚えること自体が愚かなのだろうが。カルナはソファに腰かけたジナコの太腿の間に居座っている。腕はその背にしがみつくように回っていた。
時刻は二十四時を過ぎている。いつもであれば、ジナコは部屋に引きこもっている。寝ているか、ゲームをしているか、いずれにせよ彼女がカルナを迎えることは年に幾度もない。鍵がかかっていない限り部屋に入ることは咎められていないので、カルナが不満を覚えることはなかった。今日もカルナがその傍に侍るはずだった。
だがジナコはリビングにいた。彼女が夫を迎える理由に、カルナはジナコが「おかえり」と口にするより早く腕を伸ばしていた。うひゃぁ、と形だけの悲鳴を上げた妻にカルナはどうしようもない気持ちになった。己が凡庸だとは知っていたが、まさかここまで無能だとは思わなかったのだ。
「妻の誕生日に結婚指輪を失くす夫がどこにいる」
「ここにいるっスねぇ。指輪はそのうち出てくるっスよ。カルナさんは運が良いんでしょ。いつも自分で言ってる。だから寝た寝た。顔色ヤバいっスよ」
「寝たらお前はオレをおいて出ていくのか」
「想像力が後ろ向きに豊かになってる。他にもっと言うことないんスか。今日っていうか昨日だけど、ボク誕生日だったんスよ? 朝も言ってもらったけど、夜にも一言くれるでしょ」
今度は頬を手挟まれた。温かい指で眦を撫でられ、カルナは詰めていた息を吐いた。見下げたことだが、妻の許容につけ入りたいという欲が湧いてくる。
「告げてもいいのか? オレはお前に、これからも一緒にいてくれと望んでも……」
「ダメだったら、こうしてるワケない」
ギュッと体を左右から太腿に挟まれる。カルナはその寝心地も、早くと催促される心地よさも知っていた。
カルナは妻の誕生日に結婚指輪を失くす不実な男で、プレゼントも軒並みダメにする甲斐性なしだ。準備はしていた。だが予約していた花束は真横をすれ違ったトラックに引っかかって千々になり、ケーキもその弾みで手を離れてひき潰されていた。結婚指輪もその時に失くしたのだろう。
「ふひひ、怖い顔してる」
「ロールケーキも花もない。お前の前にいるのは妻の誕生日に結婚指輪を失くした上に、日付が変わってから帰って来る男だぞ」
「うんうん、びっくりするほどないない尽くしっスね。でもカルナさんはいる。アタシと結婚したら幸せになるなんて言う、しょうがない男の人」
ジナコの左手が、カルナのしがみついたままの左腕を叩く。
「失くしちゃったなら、もう一度贈ってよ。それで万事解決とジナコさんは思ったり? 誕プレまで挽回できちゃうスペシャルプラン――ひょわっ!? くすぐったいっスよ!」
カルナはしがみつく腕を強くしていた。こそばゆいと言われても、不可抗力だった。言葉よりも感情が行動に直結するのが、カルナという男なのだ。
「キミは、贈られてくれるのか」
「カルナさんがつけてくれるなら。それ以外はお断り」
見上げた先で榛の瞳が綻ぶ。
その意味にカルナは、ようやく誕生日の夜に告げる一言を言えた。
結婚指輪はスーツのポケットに入っていた。上手いこと転げて入り込んだのか。だがいくら探しても見つからなかったのだ。
新たに結婚指輪を贈り終えた後に出てきたそれにカルナは首を傾げ、ジナコは「さすがカルナさん!」と、二つの指輪を手に、花のように笑ったのだった。
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