呼吸の時間
2021年9月から2022年10月までのカルジナWEB再録集「PickOut50」収録のカルジナです。
ガネーシャ神からカルナに近づいて来ることは稀だ。
彼女はカルナを見つけると身を翻すことも珍しくない。耳に痛いことを言われるのが嫌であるらしい。
曰く、「カルナさんは、すぅぐボクをディスる」
カルナは彼女を不当に貶めた覚えはないのだが、とかくカルナの物言いは彼女の気に障るらしい。一時期は疎まれているのかと落ち込みもしたが――カルナはガネーシャ神に気を惹かれているので、厭われているという事実は堪えたのだ――当の本人が言うには、カルナのことは嫌いではないそうだ。
「どうしてボクがカルナさんのこと嫌いとか、そんな風に思うんスか! そんなこと考えるのカルナさんぐらいっスよ!! それは、ちょっとボクの態度も良くなかったかもしれないけど、それはその、あれだし……ボクだってこれは予想外っていうか、不可抗力というか、とにかく! ボクがカルナさんを嫌いってことはあり得ないから!! その逆っていうか……っ、これからもボクは逃げると思うけど、そこところはしっかり覚えておいて!!」
嬉しいことばかりを言われて、カルナは「これは喜ばせて突き落とす手管だろうか」と思った。生来的にカルナは根暗なのだ。ガネーシャ神がカルナを避けるのが好意の裏返しというのは、あまりに恵まれ過ぎている。だが、偽りでないということもわかっていた。二の句を告げないカルナに、ガネーシャ神は「もう無理っ!」と叫ぶと、石像を励起し遁走してしまった。
カルナの目には、紅く熟れたような頬が焼きついていた。大きな目は艶々と濡れていた。淡く色のついた唇はカルナの名を象るたびに震えていた。何故と思うと、頭が酩酊したようにクラクラとした。
カルナはどうやらガネーシャ神に嫌われていないらしい。信じ難い。求める想いが強過ぎて、カルナは自分に都合のいいように聞き間違えたのではないか。思わず溢したアシュヴァッターマンには「んなこと言われるまでもねぇだろうが」と背を叩かれた。しばし呼吸が止まるほどの衝撃だった。
「ま、その言われるまでもねぇことを言わせたのがテメェか。唐変木も大概にしとけよ」
「……承知した」
カルナは言われるまでもないことを、おそらく他者の目から見れば明らかであることをわかっていなかった。神妙に頷いたカルナに、アシュヴァッターマンは「テメェはガネーシャサマが絡むと可笑しくなるな」と大笑した。その「可笑しい」には好感があった。
ガネーシャ神を前にするとカルナは可笑しくなる。誰が見てもわかることをわからなくなる。彼女に一喜一憂している。
今でもガネーシャ神はカルナを目にすると逃げ出す。気配を消して背後をとれば、屠られる獣もかくやという悲鳴を上げる。彼女からカルナに近づいて来ることは稀だ。稀とは、稀少であって皆無ではない。
ギュッと背から回された腕に、カルナはいつも身を強張らせる。それは嫌悪とは真逆の感情で、カルナは彼女が逃げ出す心を想像する。
その日、カルナはシミュレーターにいた。戦闘の要請もなく、頼みごとを受けることもなく、鍛錬と瞑想の合間の、本当に何もない時間だった。新緑の草原でぼんやりと空を見上げる。その座り込んだ背に近づくのが誰であるのか、カルナはわかっていた。ペタペタという平穏な足音はカルナがいつも追いかけているもので、背に重なった温度は気づけばカルナが探しているものだった。
ごく稀に、ガネーシャ神はカルナに近づいてくる。それはカルナが一人でいる時で、その時に彼女はカルナの背から腕を回す。初めは驚いた。何があったのか。彼女がカルナに縋るようなこと。一瞬で膨れ上がった感情は、穏やかなものではなかった。
「何があった」
振り返りその目を見て尋ねようとしたカルナに、ガネーシャ神は「そんなに驚かないでよ」と、まるでカルナの気も知らずに笑ったのだ。安心しきった声で、込められた力にカルナは硬直することしかできなかった。カルナの情感が彼女ほど豊かであったなら、叫声を上げていたに違いない。
「何もないっスよ。ちょっとこうしていたい気分なの」
かそけない吐息が背をくすぐる。しばらくガネーシャ神はカルナの背に身を預けると、ペタペタよりも早い足音で去っていった。会話はなかった。カルナは背中に感じる柔らかさや体温や意味に精一杯で、ガネーシャ神は話すよりも穏やかに息を吐いていた。もしかしたら、眠っていたのかもしれない。カルナは寝心地の良い相手ではないと思うのだが、彼女の「気分」に合ったのだろう。
一度の僥倖だ。浮かれる心を戒めたが、それは続いた。カルナは不意に訪れる歓喜の理由を知らない。問うて遠ざかることが怖いのだ。カルナは本当に根暗な男だった。好意にも不慣れだった。だけれど、先に彼女はカルナに嫌いの反対を教えていた。日を重ねるごとに、知りたいという欲求は強くなる。
「聞いても良いだろうか」
「んー、なんスかぁ」
間延びした声がカルナに応える。背中に柔らかい肌が触れ、深く息を吐く気配がする。カルナの腹の前で組まれた手は、今日も白くふっくらとしている。目に毒だな、と思う。
「この行為に意味はあるのか?」
「今更、それ聞く?」
クスクスと揶揄う声がカルナに笑う。どんな顔で笑っているのだろうと思う。ガネーシャ神はあまりカルナの前では笑わない。その前に身を翻してしまう。
「オレとて、考えることはある」
たとえば、今は空いている両腕に抱く温もりがあればとか、そういうことをこの稀な時にカルナは考えている。
「次は正面からにしてくれないか? 今からでもいい」
「うぇ、それは無理っス。息が止まる」
背に押しつけられたのは額だろうか。じわりと伝わる温度に、きっと心音は筒抜けだろう。だがやはりというべきか、彼女はカルナの気など知らずに追い打ちをかけるのだ。
「甘やかされるのは吝かではないっスけど、別にボクは人肌恋しいとかそういう訳じゃなくて。――こうしてると、息をするのが楽になる」
「オレは苦しい」
「そんなに力入れてないっスよ?」
軽い口調にカルナは天を仰ぎたくなった。筒抜けなのは、カルナの心音だけではないのだ。この迂闊さが彼女だった。
「カルナさん、もしかして笑ってる……?」
「どうだろうな。自分では良くわからん」
「その手には乗らないっスよ。せっかく楽になったのに、苦しくなったら意味ないじゃない」
確かめたければ前に、と。そういう意図はなかったのだが、ギュッと責めるように腕に力が込められる。背に負うように、温もりを感じる。
彼女は、こうしていると息が楽になるのだと言う。どうして、の答えはカルナと同じだろうか?
苦しいけれど、楽になる。
その心の意味を、カルナは知っている。
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