ファム・ファタールの現実
2021年9月から2022年10月までのカルジナWEB再録集「PickOut50」収録のカルジナ。
現代設定。ジュナとジナでちょっと暗めのお話です。
ジナコ=カリギリは手のかかる女だ。
現実はどうであれ、放っておいたらこの女はどうなるのだと人に思わせる。不意に見せる表情が、仕草が、言葉が「ジナコには自分がいなければ」と、印象づける。その最たる病い人が、アルジュナの異父兄であったのだろう。
あの男はジナコの世話を焼いていた。わずかでも目を離せば、この女は果敢なくなると言わんばかりだった。余人がつけ入る隙のない近しさで、ジナコの隣にいた男。過保護だ束縛だと白い目で見ていたアルジュナだが、ジナコに会う機会が増えるにつれ「しかたがない」と思う出来事に出くわすのだ。この女は手がかかる。
「ジナコ。今度はどこで何をした。一から十まで白状なさい」
「ひえっ、いきなり理不尽のフルスロットル! どこでも何も心当たりがないっスよ!?」
「そうですか、無自覚。またなのか。なおのこと頭が痛い」
渋い顔をしたアルジュナに、ジナコは大仰に肩を震わせる。
その日、アルジュナはジナコの家を訪れていた。通されたのはリビングで、これは最初の訪問から今まで一貫している。彼らの間には、これも初日と同じ大きな木製のテーブルがあり、違いといえばその上に一通の手紙があることだろう。アルジュナが溜まった郵便受けから選別したものだ。切手も消印もない、直に投函されたもの。それが何を意味するのか、わからぬ訳でもあるまいに。
「ここ最近、外出はしましたか」
「んー、いつものやつだけっスけど。まぁた何の心配してるんスか。ないない、どうせ恨み言っスよ。カルナさんのこととか」
ジナコが首を竦める。「カルナ」とその名を象る時、声が閊えたのは気のせいではあるまい。まだ三年だ。もう三年というべきだろうか。
「あの人、モテたんスよ。遠くから見てるだけって人が多かったけど、さすがの人気っスね」
「貴女がどう思うかは自由ですが」
アルジュナは、カルナに人気があったとは思わない。
ゾッとするような見目をした男だった。過ぎた美しさは異形と同じだ。カルナには一目でわかる愛嬌もなかった。不器用と言えば聞こえはいいが、あれに可愛げを抱くのは、後にも先にもジナコだけだろう。
アルジュナの沈黙をどう受け取ったのか、ジナコはニヘラと気の抜けた笑みを作った。
「外に出たのは、いつもと同じ海岸っスよ。ここ最近はずっとそう。さすがに届いたかなって思うから。カルナさん、どこで何してるんスかね。あの人、いつもボクの手掴むんスよ。手を離すとフラフラどこかに行くから心配だって、ボクが恥ずかしいって言ってもおかまいなし。帰ってきたら、ボクも掴み返さなきゃダメっスね。こんなに長く、どこか行っちゃうんだもん」
「そうですね」
帰ってきたら。その意味をアルジュナは問わなかった。
肉体か、魂か、それとも――。
丸い頬に涙の影は見えない。アルジュナが初めてこの部屋を訪れた時はどうだっただろうか。
ジナコは夫を亡くしている。三年前、大雨の日に川に流されたのだ。
避難勧告が出ているにも関わらず、川州で騒いでいる若者たちがいた。そこに、消防団として警戒にあたっていたカルナたちがやって来た。助けを求められたのか、何があったのかはわからない。事実として若者たちは助かり、カルナは帰ってこなかった。
公的には行方不明という扱いだが、あの男が三年もの間、ジナコを一人にしているのだ。生存の可能性は絶望的だった。
「貴女は……」
「うげっ、どうしたんスか、深刻な顔して。もしかして、またそういう話?」
「そういう話もあります。貴女にその気があれば、ということですが」
「ないっスよ。だって、ボクが再婚したらカルナさん、遠慮して絶対帰って来なくなる」
「わかりました。母にはそう伝えておきます」
「よろしくっス~」
遠慮などあの男がするとは思えないが、ジナコの前では違ったのかもしれない。今でも彼女はカルナを待っている。伝えた時の母の反応を思うと気が塞ぐが、請負うと決めたのはアルジュナだった。
カルナは、公にされていない兄だった。アルジュナはカルナが父親の違う兄だと知らずにいた。おそらく、何事もなければ知らぬままだっただろう。母は、思わず告げてしまったのだ。しかたがない。あの人は平静を失くしていた。カルナが死んだと知って、居ても立ってもいられなくなった。
(許せとはとても言えない。だが、そういう人だ)
突然、訪れてきた見知らぬ女。自らに縋り泣き崩れる母をジナコがどう思ったのかはわからない。その瞳には何もなかった。困惑も悲嘆も憤怒も何も。
ジナコは悲しければ泣き、楽しければ笑った。彼女の喜怒哀楽は、カルナが不足な分を補って余るほどだった。アルジュナは、感情のないジナコを初めて見た。
――庇護しなければ。痛烈に思った。
意思のない瞳と視線は重ならない。この女は何も見ていない。ジナコは、庇護がなければ生きていけない。
それはアルジュナの錯覚だ。現実のジナコは果敢なさとは無縁の女性だ。常識も現実を生きていく力も人並みにある。
「手紙はどうします」
アルジュナはテーブルの上を視線で示した。返ってきた反応は冷めたものだった。ジナコは、手紙の主がカルナでないとわかっている。ゆえに興味を示さない。
「あー、それ。それもアルジュナさんに任せるっス」
「……わかりました。何事もないとは思いますが、貴女も気をつけるように」
「だから気をつけるも何も、何も起こりようがないんだって。ボクにラブレターなんてないから。どっからその発想が出てくるんスか」
おどける相手にアルジュナは丁寧に笑った。それは、封を開けたことがないから言えるのだ。
ジナコは手紙を自身への恨み言かカルナへの恋慕と信じ切っているが、同じことは三年の間に幾度もあった。もしかしたら、自分たちが知らぬだけでカルナがいる時ですらあったのかもしれない。
(過保護、過保護だとは思っていたが)
囲い込むには、囲い込む理由があったのだろう。
「はぁ~、アルジュナさんも大変っスね。お母さんとボクの板挟みで」
「気づいているなら、そろそろ手心が欲しいところです」
「それはない。ボクにそういうサービスは未実装」
「良いでしょう。それが貴女の望みなら」
「望みっていうか、予防線っスけどね。あり得ないけど、もし本当にそういう手紙なら困るだけだし。……そういう気持ち、お出かけしたまま帰って来ないんスよ」
彼女の帰って来ない「気持ち」の理由。
アルジュナは封をされたままの手紙を手に取った。この手紙の送り主がどこで彼女を見初めたのかはわからない。だが、想像はできる。思ったのだろう。「この女には自分がいなければ」と。ジナコには、そう思わせる一瞬がある。
たとえば今、アルジュナが抱くように。己がいなければ、この女はどうなるのか。
アルジュナは、手紙の送り主にしかるべき手を打つ。名はおろか、家まで知られているのだ。白いそれを指先でなぞれば唇が歪む。
(今回は可愛いものだ)
三年の間、口にすることも憚られるような、怖気の走るようなこともあった。ジナコは知らない。彼女は興味がない。
「な、なんスか。その性もない生き物を見る目は」
「いえ、あの男は貴女をどうしようもない要介護生命体だと言っていましたが、事実だと思いまして」
「はいぃい!? あの人、アルジュナさんにまでそんなこと言ってたの!?」
「言っていましたよ。反論があるなら聞きますが」
「いいっス。論破の予感しかない」
「賢明ですね」
証拠は揃い過ぎるぐらいに揃っているのだ。
アルジュナは、ジナコの夫でもなければ、許婚でもない。恋人でもなければ、家族でもない。そんな男だ。そんな男に、ジナコは自らへの好意を退けることを許す。
迂闊だ。危うい。この女は、アルジュナが庇護しなければ。気づいている。これは錯覚だ。彼女に恋慕を募らせた人間たちと何が違う。顧みられぬと、独り善がりな憎悪を抱いた人間たちと何が違う。
「カルナさんのバカ」
俯き、肩を震わせる女。無防備で、いとけない。この女は一人では生きていけない。それはジナコを見る者の強欲だ。
ジナコは一人で生きていく。帰らぬ心を抱えたまま、――それを認められぬ己がいる。手の中で、封の閉じた手紙が歪む。こうして、あの男も潰してきたのだろうか?
(貴様の心がわかるとは言わない)
だが在るがままに生きるだけで、自分だけだと、そう思わせる人間はいる。
「アルジュナさん……?」
小さな声で、名を呼ばれる。縋るような、頼るような、甘やかな。どこからが真実で、どこからが嘘なのだろう?
わからない。恋慕は五感を狂わせる。だが――。
アルジュナは瞳を細めて笑う。
「貴女は手がかかる」
それだけは、現実だ。
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